『たかときつねのはなし』
昔々、まだ山と人々の均衡が完全には崩されていなかった頃
大きく発展しようとしている一つの里に隣接した山には、一羽の鷹が住み着いていました
その姿の勇ましいこと、翼を広げればその力強さに麓の誰もが目を留め
枝で休めば頂の誰もが溜息を吐きました
それでも鷹は独りでした
彼の親兄弟は、皆人間に狩られてしまったからです
そのせいもあって、鷹はひどく人間を恨んでいました
【たかときつねのはなし】
この森も随分住みにくくなったものだ
そんなことを考えながら今日も鷹は自分の森を見下ろします。
近くに出来た里から押し寄せた人間が巣を作るのに丁度良い木を切り倒してしまい。山の中まで生活の幅を広げてきたため、昔は豊かだったこの森も随分小さくなってしまったからです。
残っていた仲間達も、もっと住み良い土地を探して次々に旅立っていってしまいました。
たった一羽、仲間に置いて行かれてしまっても幼い頃家族と共に暮らしたこの森が鷹は大好きだったのですが、これ以上住みづらくなってしまっては留まることもできません。
そろそろ潮時かと思うのですが、愛着のある土地を簡単に離れることもできず、小さくなっていく森に住処を構えたままだけが日々が過ぎていきます。
そんな鷹が、今日の獲物を探していたある日のことでした。
普段、山の生き物なら近づかない深い崖の下、どうやら獣らしい毛の塊がまるく蹲っています。
大方崖から落ちて怪我でもしたのでしょう。手負いの動物は鷹にとってはこの上なく都合の良いご馳走でした。
他の輩に見つかる前にいただいてしまおう
そう考えると、鷹は力強く翼を翻して崖の下へと舞い降りました。
辿り着いた崖の底、視線を遮る茂みもないそこに倒れていたのは、狐でした。
力なく投げ出された脚は折れてはいないようですが、身体を強く打ったのか起き上がることが出来ない様子で、ぐったりと目を閉じています。
狐なんて、珍しい
鷹は驚き、いつもは鋭い瞳を丸くしました。
それこそ昔は、餌になるウサギやネズミを取り合った狐たちも、最近ではすっかり姿を消してしまっていたのです。
しかし鷹が驚いたのはそれだけではありません。
その狐が今まで見たこともないほど立派な金色の毛並みを持っていたからです。
既に息絶えてしまったのだろうか
動かない狐の方に歩み寄り嘴を近づけたその時、今まで閉じていた狐の瞳が大きく開かれてその強い色彩が鷹の姿を見据えます。
それはとても深く、頭上に広がる空よりも晴れやかな青色でした。
意を衝かれた鷹が一瞬だけ怯むと狐は僅かに威嚇するそぶりを見せましたが、すぐにまた大人しくなってしまいました。
自分がすでに身体を動かすことが出来ず、目の前の敵には敵わないとわかったのでしょう。
または既にそんな余力など残されていなかったのかもしれません。
覚悟を決めたように大人しくなった狐を見て、鷹は不思議な気分になりました。
おそらくこの狐が『この森に残った最後の狐』なのです。
それは奇しくも『この森に残った最後の鷹』である自分と同じ境遇でした。
ここでこの狐を食べてしまうのは簡単です。弱った相手の皮を剥ぎ、肉を啄ばめば二日と待たずに狐は骨だけになって土に返っていくでしょう。
ですが、いま此処でこの狐を生かしておけば、森に残った最後の一匹同士、何か語らうことが出来るかもしれません。
鷹は手負いの狐を置いてその場を飛び立ちます。
森を飛び回り、獲物の兎を見つけると得意の狩りの腕前で見事食料の確保に成功し、鋭い爪で獲物を掴み再び先程の崖へと戻っていきました。
崖の底に戻ると、狐は先程と変わらない体勢でそこに横たわっていました。
まだ微かながらに息のある様子に安堵して、鷹は自分の捕まえた獲物を地面に下ろします。
そんな鷹の行動に僅かに目を開いた狐でしたが、反応する余裕はないようで青い瞳でただ不思議そうに瞬きしています。
鷹は不思議そうな狐の目の前で捕まえたばかりの獲物に嘴を立てました。
まだ暖かい血が大地を彩り、独特の生臭いにおいが辺りに広がります。
良く知った食料の身を裂き、一番上等で栄養のある部位を引きずり出すと、鷹はその肉を最早弱々しく瞬くことしかできない狐の口元に運びました。
狐は始めこそ鷹の行動に戸惑っていたようでしたが、それでも今が生き長らえるチャンスだということは解ったようで、なんとか与えられた肉を口に入れるとそれを飲み込みました。
その日から鷹は動けない狐の介抱を始めました。
狐は驚くようなスピードで回復し、甲斐甲斐しく世話を続け三日三晩も経った頃には身体を起こして歩けるほどに回復していました。
こうして一匹と一羽の間には堅い絆が芽生えました。
狐は命を救われた鷹を慕い、また鷹も自分を慕ってくれる狐を信頼しました。
そんな二匹の出会いから暫く経ち、互いに森に残り独りだった鷹と狐は共に暮らすようになります。
狐が狩りに失敗すれば鷹の獲物を分かち合い、鷹が倒せないような大きな獲物も狐なら捕らえることが出来ました。
二つの違う命はいつも一緒に、互いのために力を尽くし合いました。
ですが、一緒にいれば居るほど、絆が深まれば深まるほどに、鷹の心にはある考えが浮かぶようになったのです。
鷹が傷を負った時、狐はその傷口を舐めて癒してくれました。鷹が寒さに震えればその尾で優しく包んでくれました。
ですが、鷹の嘴では狐が怪我を負った時、舐めて癒してやることはできません。狐が寒さに震えても、鷹の翼では満足に包んでやることもできません。
自分も同じ狐で、さらに雌であったなら、子を成してつがいになってやることも出来ましたが、どんなに願ったところで自分は鷹で、ましてや雄である以上それを望んでも叶える事など出来るわけもありませんでした。
ある日、鷹が今日の狩りを負えて狐と暮らす巣穴へ戻ると、先に戻っていた狐が得意げに尾を揺らして待っていました。
一体どうしたのか?
鷹が首を傾げると狐は咥えていたものを鷹の方へと押しやります。
それは紛れも無く肉の塊でした。しかし、いつも自分達が食べているものとは違い、血が滴っているわけでも毛皮に覆われているわけでもありません。
これは?
鷹は狐に問いかけます。
狐は先程より得意げに鼻を鳴らすと人里で得てきたのだといいました。
そんなわけはあるまい
鷹は信じられず狐を疑いました。
本当だ。自分が人里に下りて貰ってきたのだ
狐は答えます。
ですが、鷹には狐の言うことが信じられません。人間とは仲間同士での施し合いはしても、自分達のような森の生き物に食料を与えたりはしないものだからです。
そう伝えると、狐は、
本当だとも、よく見ていろ
と嘯いて穴倉に落ちていた木の葉を一枚咥えました。
鷹はそんな狐の様子に、どうせ強がりだろう。行き倒れた人間の積荷からでも盗んで来たに違いない、と思っていたのです。
しかし、木の葉を咥えた狐の姿がみるみるうちに変化し、金色の毛並みが消え、代わりに肢体が伸びていき、数秒後には完璧に人間の姿をした生き物がどうだとばかりに鷹を見下ろしていました。
その姿に鷹は最初、驚いて逃げ出しそうになりましたが、人間に頭は狐と同じ色の毛で覆われていて、その瞳は見違うことのない深い青色だったのですぐにそれが狐なのだと理解することが出来ました。
狐は変化のできる仲間達は皆人間の姿になって里へ降りていったのだ、と語りました。
人里に降りれば食に困ることも無く、うまく人間に成り済ませば狩られて命を落とすことも無いのだと。
人間の言葉でそう言う狐に鷹は問いかけます。
ならばお前はどうして人間にならないのか?
狐は少しだけはにかむ様な笑みを浮かべると、人間の手で鷹の頭に触れました。
鷹にとって人間の手というのは親兄弟を奪った憎く恐ろしいものでしかありませんでしたが、取り乱さないように身を縮めて我慢しました。
俺はこの山が好きだから。それにここにはお前もいる
だからこの山を降りるつもりはないのだ、と語る狐の言葉に鷹は酷く安堵しました。
いつの間にか狐を失うことは、鷹にとって親兄弟の仇とも言える人間の存在よりも恐ろしいことになっていたのです。
それからというもの、狐は頻繁に人の姿で山を降りていくようになりました。
小さくなってしまった森の中ではもはや小さなネズミすら見つけることは困難で、狩りの名手であった鷹でさえも獲物を確保することが難しくなってきたためです。
狐は人里から戻っては鷹に色々なものをもってきてくれました。
それは森や山では得ることの出来ないものばかりで、ひとつひとつを説明をしてくれる狐に、鷹も感心してその品々を見つめていました。
やがて、狐は毎晩のように巣穴には帰ってこなくなりました。
どうやら人間の暮らす里で『シゴト』というものを始めたそうなのです。
『シゴト』は自分達森の生き物にとっての狩りと同じようなもので、それをしなければ人間は食べるものを得ることが出来ないのだ、と狐は語りました。
数日に一度、里から帰ってくる狐はいつも酷く疲れていて、巣穴では寝てばかり居ましたが、どんなに消耗した後でも次の日には再び人間の姿になって山を降りていくのです。
そのときに狐は、決まって人間の掌で鷹の頭を撫でました。始めは怖いだけだったその感触でしたが、狐が優しく優しく触れる度にそれは鷹にとって心地よいものへと変わっていきました。
狐も、こんな風に撫でてもらえるのは心地いいのだろうか
だからあんなに疲れきってもまた人里に降りて行ってしまうのだろうか
鷹は一人きりの巣穴で考えます。
自分ももし人間の姿になることができたのなら、狐はいつも自分の側にいてくれるだろうか。
あんなふうに優しく触れる事ができたのなら、彼に安息をあたえられるだろうか、と。
ならば自分も人間になればいいのだろう
狐にも、雌にもなれないなら、せめて同じ姿で狐を優しく包んでやりたい、たとえ憎き人間の姿であったとしても。何時しか鷹はそう考えるようになっていきました。
そんなある日のことです。里から戻った狐は巣穴に戻るなり、人間の姿のまま嬉しそうに鷹に語り始めました。
自分も『人間の名前』を貰ったのだ
そう言って狐は嬉しそうに巣穴の外を見つめます。その視線の先には淡い色をした春の花びらが一枚ひらりと舞っていて、その花びらを見つめる狐の横顔がいままで見てきたどんな表情よりも幸せに満ちていることに気付き、鷹は胸騒ぎを覚えました。
それからというもの、狐は巣穴にいるときも人間の姿から戻らなくなってしまいました。
そんな狐に鷹は聞いてみることにしました。
俺もお前のように人間になることはできるだろうか
すると狐は少しだけ驚いて、困ったように頭を掻いて見せます。
どうだろうか。自分のように『シュギョウ』すれば或いは可能かもしれない
狐の言葉に鷹はさらに問いかけます。
狐は自分達の一族が木の葉を咥えて精神を統一することを『シュギョウ』と呼んでいるのだと鷹に教えてくれました。
人間に化けることが出来るのも一重にその『シュギョウ』の賜物なのだ、と。
それからというもの、鷹は毎日『シュギョウ』をすることにしました。
木の葉を咥えて目を閉じ、狐に教えられた通りに精神を集中させます。うまくいっているのかは解りませんでしたが、これからも狐と共に生きていくには自分も一刻も早く人間になるしかないと鷹は考えたのです。
来る日も来る日も、鷹は『シュギョウ』を続けました。
その間に、狐はついに巣穴には帰らなくなり、月に数回、僅かな時間、鷹に会いに森を訪れるだけになっていました。
そして今日も鷹が『シュギョウ』をしていると、狐が山を登ってきます。
一ヶ月ぶりの再会に、いつもなら笑顔を見せてくれる狐が今日は笑っていないことに鷹は気付かない振りをしました。
もう『シュギョウ』は諦めないか
その姿のままで構わないから、一緒に里に降りないか
狐の持ちかけに鷹は首を振ります。
人間にならないと意味が無いのだ
そう告げて鷹は空へと飛び去りました。
毎日の『シュギョウ』で鋭敏になった感覚で、狐が身体の後ろに自分を閉じ込めるための籠を隠し持っていたのを察していたのです。
共に歩むための脚も、抱きしめるための腕も無い
そんな自分はまだ狐と共には生きることはできない
空を舞い飛び去る鷹を狐は酷く悲しそうな眼で見つめていましたが、鷹はそれにも気付かない振りをしました。
その次の日も、その次の次の日も鷹は変わらずに『シュギョウ』を続けます。
狐はあの日から、もう鷹に会いに来ることはありませんでした。
それでも鷹は『シュギョウ』をやめませんでした。
*
季節が過ぎ去り新しい春が来ました。
人の里は大きな戦乱に巻き込まれ、小さくなっていた森も山も焼けてさらに小さくなりました。
それでも鷹は『シュギョウ』をやめませんでした。
さらに季節は巡り十回目の春が来ました。
戦は終わり、里は平和になりました。鷹は自分に残された生き物としての命がもうすぐ尽きるのを感じました。
それでも鷹は『シュギョウ』をやめませんでした。
五十回目の春が来ました。
『シュギョウ』を続けた成果か、鷹は寿命が尽きても死ぬことはありませんでした。
そのころになるとようやく人間を真似た姿には化けられるようになりました。
ですが、それはまだ不完全でとても里に降りていけるようなものではありません。
これ以上続けても人間になれる保障もありません。
それでも鷹は『シュギョウ』をやめませんでした。
そしていつの間にか、狐が最後に訪ねて来てから九十九回の春が巡りました。
鷹は『シュギョウ』をやめました。
ついに完璧に人間に化けることができるようになったのです。
嬉しくなった鷹は、いつも狐が山を登ってきていた道を振り返りました。
ですがいくら待っても、再び狐が鷹に会いに来ることはありませんでした。