『人間になりたかった獣』
オレの育て親だった婆ちゃんは、色々な昔話をしてくれた。
それはこの田舎の村に伝わるちょっとした怪談だったり、眉唾物のまじないだったりもしたけれど、幼いオレにはどれも魅力的なものばかりで、寝付けない夜はいつもしつこく昔話を強請ったものだ。
同じ話はあまりしなかった婆ちゃんだったけど、とくに気に入っていたのか、二つだけ繰り返し語り聞かせてくれた話がある。
一つはオレの曾祖父ちゃんの話。
ある日ふらりと村に現れた曾祖父ちゃんは当時ではかなり珍しかった金髪碧眼。
その上、常識知らずで素性の知れない余所者だったという。
彼はいくら村人に気味悪がられても決して笑顔を絶やさず懸命に働き、次第に皆に受け入れられ村の仲間として溶け込んでいったのだそうだ。
その後、戦争に駆り出され、何とか帰ってきたものの身体を病んでしまい長く生きることはなかったらしいが、村の人たちからは最後まで慕われていたと聞いている。
「お前を見ているとあの人の事を思い出すよ」
と、婆ちゃんはよく目を細めていたっけ。
オレと婆ちゃんに血の繋がりはない。
曾祖父ちゃんもだけど、どうやらうちの家系は短命ってのがジンクスらしい。
父ちゃんと母ちゃんはオレが物心着く前に事故で死んじまったんだそうだ。頼れる親戚もいなかったガキを引き取って、立派に成人するまで育て上げてくれたのが、曾祖父ちゃんの代からウチの家系の知り合いで、独り身ながらも恐ろしい程女傑で通ってきた婆ちゃんだった。
そんな婆ちゃんも去年の冬、オレが二十歳になって二ヶ月後、よく晴れた冬の日に大往生で息を引き取った。
元々かなりの高齢だったし、きっとオレが一人前になるまでは…って気を張ってくれていたんだろう。村から一時間半ほどバスを乗り継いだ先の街で寮に入って大学に通っていたオレは身辺整理や遺産の関係もあって、この春からはちょっと不便だけど婆ちゃんが住んでいたこの田舎の村へ戻ることに決めた。
確かに通学は面倒になるし、コンビニも無いような小さい村だけど、婆ちゃんが語り聞かせてくれた「もう一つの話」にも興味があったから。
オレの名前は、うずまきナルト。天涯孤独の大学生。専攻は文化人類学。
わかりやすくいえば「民俗学」
一【神様の名前】
ざくり
ざくり
村の者でも滅多に立ち入ることの無い山道を、ロードワーク用の登山靴で登っていく。昔は薬草や山の幸を得るためにこの山に入る里人も居たそうだが、如何せん緑が濃くて道が複雑だ。日が沈めば遭難するのは必至だろう。
別にこんな辺鄙な山道を闇雲に歩いているわけではない。
婆ちゃんが亡くなる間際まで熱心に話してくれた、もう一つの昔話に興味があったから、この村に戻ってきたら最初に見に行こうと決めていたのだ。
『あの山にはね、神様がいらっしゃるんだよ』
生前、信心深い方ではなかった婆ちゃんが熱心に語った『山の神様』
何でも婆ちゃんがまだ子供の頃の事。この山で迷子になって日が沈んでしまった時、うっかり足を滑らせて崖から落ちそうになったことがあったらしい。
その時、黒い着物に大きな翼を持った男神様がまだ幼気な少女だった婆ちゃんを抱き抱えて助けてくれたそうなのだ。
その後、神様は優しく手を引いて夜の山道を案内をし、人里に辿り着くなり大きな鳥に姿を変えて消えてしまったという。
同じような話は当時、この村では有名だったそうで、足元が危うい場所に立ち入りそうになると何処からともなく男の声で注意を促されたり、道に迷うと何処からともなく現れた鳥に導かれて無事に下山出来たり…と、噂から体験談まで、村人達の間で語り草となったそうだ。そして、その加護のお礼にささやかな碑を建てて山の神様として祀ったのだという。
しかし今ではその伝承を知る村人もおらず、おそらく知っているのは婆ちゃんから伝え聞いたオレだけだ。本当の話かなんて確かめる術もない、だが本当なら今でもこの山には当時建てられた碑が残っているだろう。
伝え聞いた「神様」にまつわる共通点は、男の姿や声、黒い翼や鳥の姿というもの、黒い羽の生えた男の姿の山の主といえば天狗が一般的だが婆ちゃんをはじめ、村人達は「山の神様」と呼んで崇めていたらしい。
さらにオレは婆ちゃんからもう一つ、興味深い話を聞かされていた。
それが数あるこの村の昔話の中で特に曾祖父ちゃんと山の神様の話が印象に残っている理由でもある。
「山の神様の『名前』か…」
山の神様の牌を作った時、婆ちゃんはまだ十歳前後の子供でオレの曾祖父ちゃんは戦地から戻って亡くなる直前、ほとんど自分の屋敷から動けない状態だったらしい。
生前から出生や異国めいた髪の色など謎の多い曾祖父ちゃんだったが、そんな彼は山に現れる神様の話を聞いて何故か楽しげに笑い、よく自宅に入り浸って遊んでいた婆ちゃんにだけこっそりとその神様の『名前』を教えてくれたのだという。
ちなみにその屋敷というのはオレの親族が全員亡くなってから婆ちゃんが土地と屋敷ごと買い取り、今では相続人に指定されたオレが住んでいる家で、かなり古い洋館だ。
傷んでは改装を繰り返し、今でも立派に機能する年代物の家には曾祖父ちゃん、祖父ちゃん、父ちゃん、母ちゃん、婆ちゃんとオレに関わってきた親族が各々の趣味で集めたアンティークやら書物やらが溢れかえっていて、掘り返せばまだ目にしたことがないコレクションがまだまだ眠っているだろう。
ざく、と音を立てて踏みしめる山道は長年人が足を踏み入れていないのがよくわかる。
辛うじて残っている獣道も随分薄くなっていて、とても人が歩くような道ではない。
地図とコンパスを片手に、時々目印の紐を木の枝に括りつけて登ってきているが、こうでもしなければ昼間でもすぐに迷うだろう。日が落ちてしまえばおそらくひとたまりもない。
婆ちゃんの話と照らし合わせれば牌が建てられたのは山の七分目ほど、急な坂道が続く山中の村人が休憩に使っていた平坦な場所で、そこには立派な桜の木があるという。
ただし、碑石自体はあまり大きくないそうなので草が茂ってしまえば埋もれてしまうかも知れないし、すぐ近くには切り立った崖もあるため注意して探さなければならない。
幸いにも今は春真っ盛り、鬱蒼とした緑の中に大きな桜があれば目立つだろうからそれを目印にして探してみるのが今日の計画だ。
次第に濃くなる草の匂いがここが村からさほど遠くない小さな裏山だということを忘れさせる。道標の紐を木に結び付けながら暫く斜面を登り続けると、程なくして、本当に僅かだが休憩には適した開けた平地にたどり着いた。
はらり、と目の前を舞う鮮やかな色彩に顔を上げると大きな桜の木が鮮やかな春色で頭上を彩っている。
碑のある条件の場所には一致する、だが周囲を見回しても木と藪ばかりで碑らしき石は見当たらない。
オレは道中草を掻き分けてきた軍手の上にさらに分厚い皮の手袋を嵌めると躊躇うことなく藪の中へと突っ込んだ。
古い神社や祠が寂れて何があるかわからない藪に覆われていることはロードワークを主にしていればよくあることで、この程度は慣れている。
がさがさと足元の草むらを掻き分け進路を確認しながら進み、丁度良い咲きごろになった桜の木の下まで辿り着く。かなり立派な桜の木で、周りに花をつける種類の植物がないためかそこだけが不自然なほど鮮やかな色彩で彩られている。
思わず手を止め顔を上げればふわり、と穏やかな風が頬を掠めた。
不思議な風だ、と思った。
この山に入ってから妙な感じがする。それは胸がざわつく様な、それでいて何故か落ち着く様な。
今まで数々の聖地と呼ばれる場所に足を運び、実際厳かな空気を肌で感じた事もある。しかしこれはそういった神聖な気分とは違う、もっと懐かしいような、知らないのに知っているような、もどかしい感覚。
とりわけこの桜の木の周辺はそんな空気が濃い。
そっと桜の幹に色あせた手袋で触れてみる。頬を撫でていた風が一瞬、止まった。
いや、そんな気がしただけかもしれない。
誰もいないはずの山に緊張感が走り、息をするのも躊躇うような静寂の中を一枚の花弁がひらひらと舞い落ちる。
淡いピンク色が鼻先にぶつかりそうになった、その刹那、急に荒々しい風が吹き抜け、儚い花は暗い藪の中に消えていった。同時にその場を支配していた静寂も消え失せる。
なんだ…今の…
無意識に額を拭い、息を吐く。気が付くと背中がじっとりと汗ばんでいた。
暫く周囲を探したがなかなか石碑らしきものは見つからない。
オレはさらに深い藪の中に足を突っ込み、ガサガサと足場の地面を確かめる。
背の高い草に視界が覆われて周りの様子すら全くわからない緑の中を文字通り、手探り、足探りで進む。
草木を痛めるのは本意ではないが、こんなにも探索に苦労するなら芝刈り用の鎌でも持ってくるのだった、と後悔しつつ一歩一歩進んでいくと視界は殆ど緑に覆われ自分がどこに向かっているのかもよくわからなくなった。
祀られた碑がどの程度の大きさなのかわからないが、この藪の中から探し出すのは困難かもしれない。そう思うと、どっと疲労感が増して足が重たくなっていく。
不意に視線を上げると見えるのは青空としなやかに伸びた桜の枝、まだ散るには早い時期だと思うが先程からはらはらと薄紅色の花弁が風に乗って舞い落ちている。
木の幹から随分離れたと思ったが、そうでもないらしく立派な枝ぶりが頭上を横切っていて、情けなさに乾いた笑いが漏れた。
とりあえず座れる場所を探して、休憩がてら今後の対策でも考えよう、とオレが足を踏み出すのとそれはほとんど同時だったと思う。
「止まれ」
その声は突然、ふわりと桜が舞うように自然に耳に届いた。
低く、落ち着いた男の声。
声は背後ではなくたしかに頭上から落ちてきて、オレの心臓は跳ね上がる。もちろん恐怖ではない。
こんな田舎の山奥、長年人など入った形跡もなく、万が一鉢合わせたとしても深い藪に隠されてこちらの姿など常人なら確認しようが無いはずなのだ。
そう考えれば、先程の声は…
期待に心が躍った。婆ちゃんの昔話、村人達の体験談、この場所の不思議な感覚、全てが繋がっていく。
「…なぁ!…お前、ここのカミサマ!?」
背の高い藪の中の僅かな隙間から見える桜の木に向かって問い掛けた。
そこに居る確信があったわけでもないし、勿論返事などあるわけがない。何も居るはずが無い、居たとして、覆い繁った緑の向こうにいる誰かが声をかけてくれたのかもしれない。それなのに、
心なしか風が強さを増した。
桜の花びらが散る。誰も居ない筈の空間に求める何者かが居るような気がして、オレは頭上を見回しながら藪の中を闇雲に歩きまわった。
「…それ以上奥へ行くな!」
再び耳に届く低い声。今度は少しだけ、焦りが滲んでいる。
無我夢中で桜を見上げていたオレは求めていた声に反応するが、やはり声のした方には何の姿も見ることが出来ない、とっさにもっと広く視野を撮ろうと無意識に後ずさった、その時。
「…このウスラトンカチが…!」
「えっ…?」
不意に足元にあった地面の感覚が消える。
背の高い藪に隠されて見えなかったが桜の巨木の奥は崖になっていた。
急に開けた視界と滑り落ちるように投げ出された身体に、浮かれていた思考が一気に冷める。
崖の底には川も何もない、ただ無骨な岩肌が広がっている。高さは軽く5、6メートルはあるだろうか。落ちればただで済まないことは、混乱した頭でも十分に把握出来た。
そういえば、切り立った崖があるって言ってたっけ…!?
婆ちゃんの話を今更思い出してももう遅い。草を掴もうと必死にもがく自分の手が虚しく空を掻く。
重力に任せて落下して行く身体がまるでスローモーションのようで、オレはただ目の前に広がる一面の桜の木と、行くなと呼び止めてくれた声の主の事を思った。
ごめん、せっかく忠告してくれたのに
桜の花びらがぱっ、と散るのが視界に入った。誰も居なかった筈の藪の中から白い腕か伸ばされて落下していくオレの手首をしっかりと掴み、落ちていく身体を寸でのところで繋ぎ止めた。ただし、重力に逆らって停止した全体重を支える事になった右肩がぎしっと音を立てて、正直痛い。
今、オレの命をつないでいるのは覆い茂る草むらから伸びた腕、黒い着物の袖から伸びたその手首はオレと大差ない太さのくせに危なげなく男一人の全体重を支え、優しさや気遣いなど皆無の荒っぽさで崖の上へと引き上げていく。
「あ、あの!痛い!痛いんですけど!?」
「ウルセェ…喚くな…」
岩肌を舐めるように引き上げられ、藪の中へと戻される。さらにその腕を掴んだまま覆い茂った緑の中を引きずられ、有無を言わさず崖から引き離されていった。
「ちょ、痛ェっ!もう落ちない、って…ワァ!」
結局右手だけを掴まれ、乱暴に放り出されたのは最初にたどり着いた小さく開けた平地で、勢いのまま顔面から着地して土埃が口に入る。これはかなり痛いし辛い。
我ながら情けない声でえづきながら身を起こす。
酷いではないか。婆ちゃんは優しく抱き留めて助けてくれたと言っていたくせに。
瞳に涙を浮かべながら振り返ると、そこには
「…最近のガキは礼の言い方も知らないのかよ」
癖のある黒髪に黒い着流し、長身の男が偉そうに腕組をして立っていた…というか、正確には「その場にちょっと浮いていた」
「ガキじゃねぇし…ちゃんと礼も言えるってばよ…ドウモアリガトウゴザイマシタ」
ぺっぺ、と砂を吐きながら汚れた皮手袋と軍手を纏めて脱ぎ捨てる。
眉間に皺を寄せ不機嫌そうな男(?)につかつかと歩み寄る。
肌以外の部分がとにかく黒で統一されている。衣服から瞳まで見事に真っ黒だ。
ふわふわと浮いているので見下ろされる形になっている。ソイツは怪訝な顔でこちらを見ているが、気にせず無遠慮に肩を掴み背中に腕を回してみた。
「なっ!?!!?!?!??!!?」
「あれ?翼があるって聞いてたけど…ねーんだな?鳥とも聞いてたけど…人間だし…」
わさわさと背中を触り言い伝えの通りか確認していると腕の中で戦慄いていた体が浮かび上がりそうになったのでとっさに腰に組み付く。抵抗なのか髪を掴み、思い切り引っ張られたが離す気はない。
慌てているのか眉を吊り上げて声を荒げる「山の神様」をまっすぐ見つめる。
「やめろ!」
「なぁ…お前カミサマだよな?」
まるで動物のように毛を逆立ててこちらを威嚇する神様の言葉を無視して、しがみつく腕に力を込める。
周囲の風が強くなり五分咲きの桜が散って地に落ち、あたり一面を薄紅に染める。
「じゃあお前が『サスケ』?」
気づけば風が止んでいた。
続